悲運の宰相 源義経


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社長の趣味の源義経

源義経が生まれたのは平治元年(1159年)、平治の乱が興った頃であります。父義朝が率いる源氏が破れ、義朝は討ち死にします。さらに長男 源義平は斬首刑。次男 朝長は討ち死にし、三男 頼朝は伊豆に流罪にされました。異母の常盤御前の3人の子供たちも平家によって捕らえられ、三男の義経はまだ幼少であったため、鞍馬寺に預けられることになります。しかしながら、年を重ね新たな時代へと突き進んでゆきます。

源義経は平治元年(1159年)に生まれ、文治5年(1189年)に没します。義経の幼名は「牛若丸」または「九郎」と申しました。自分の素性を知った牛若丸は父の仇の平家打倒を胸に秘めて、昼は学問をして夜は「僧正が谷」にて武芸に励みました。

この時期に特筆すべきは五条の橋で武蔵坊弁慶との出会いであります。太刀1000本を奪うことを悲願にしていた弁慶が、五条の橋の上で義経との戦いに敗れ去ります。そして弁慶が義経に手をつき自分の非を詫び、家来にしてもらいます。鞍馬寺を出た後は、奥州平泉の藤原秀衡の庇護を長く受けます。平泉の金色堂は今も威風堂々と金色の輝きを保っております。

治承4年 兄頼朝の挙兵を聞くと、奥州平泉より駿河黄瀬川に参陣します。頼朝の家来になった義経は、頼朝の信頼と引き立てを受けて、めきめきと頭角をあげ鎌倉の代官となり、その後の平家の息のかかった関東武者との戦いに連戦連勝して大将になりました。元歴元年(1184年)正月、都から平家を追い出した源木曽義仲との戦に大勝し義仲は切腹します。そうして都の覇権を握ります。

それから4年後、摂津の国 一の谷に陣営をはる平家に対し義経は背後の鵯越から鹿のみ通う急峻な崖を、「鹿も四つ足、馬も四つ足」と言い放ち、精鋭3000騎を率いて敵陣の背後から攻め立てました。

一の谷鵯越逆落としの図

【逆落とし伝説】により平家の陣は総崩れになりました。平家は四国の屋島に逃れました。屋島では平家に奇襲をかけ大勝。屋島の合戦においては海に落とした自分の弓を、危険を冒して拾い上げる【弓流し伝説】が伝わっています。

壇ノ浦合戦源義経八隻飛び

平家がお連れした安徳天皇の御入水や三種の神器の入水により、平家は最も大切な士気をなくして、源氏の大勝利に終わります。平家は二十余年の栄華が無情にも塵の如く夢となってしまうのです。

義経は大勝利の大きな功績を源氏から、また頼朝から認められ賞せられる所でありましたが、どういう訳か都の守護役である検非違使左衛門少尉を頼朝の許可なく受けたかどで頼朝の不興をかいます。そして将来頼朝の座を脅かすものとして頼朝は義経に接見することを拒みます。義経はこれに対して腰越状を送りますが、許されませんでした。

只々、兄の歓ぶ顔が見たいという義経の一途な思い、頼朝の弟として源氏の為に、父 義朝のために戦った姿を見て認めて欲しいという一途な想いは残念ながら叶うことはありませんでした。鎌倉へ帰ることも許されず追放の身となり、最悪の追われる身となりました。

合戦は全ての武士の全体行動・組織行動であるべきである。義経の独断専行ということになった為、頼朝の特に家来たちとも対立していき、頼朝までが同調して対立・疎外される結果になりました。誰か一人でも義経の味方がおればこのような事にはならなかったと残念です。

頼朝は守護地頭を各地(吉野山、安宅関等)に置いて厳しく追補させました。藤原秀衡を頼って、再度奥州平泉に逃れた義経は、秀衡の死後、頼朝に屈した秀衡の息子の泰衡の襲撃にあいます。衣川の館に駆け付けた義経の仲間と奮戦しますが敵わず、弁慶も立ち往生します。

ついに義経は妻子と共に自害をしてしまいます。自身は功績があり、源氏の大勝利の一番の功労者、悲運の宰相は悲劇的な最後の幕を31歳で閉じます。その悲劇的な最後も含めまして、我々の心を捉えて離さない人物だと言えるのではないでしょうか?

【常盤子を抱くの図に題す】

常盤子を抱くの図に題す

通釈
平家に追われた常盤御前の笠に雪が舞い子供を抱きしめて、手を引いた着物の袂には風が吹きつける。乳を求めて泣く声が、年を経て鉄塊山で兵たちを叱咤激励したこの声であること。

【五条の橋】

五条の橋

月の冴えた夜、五条の橋のほとりで笛の音が聞こえてくる。そこへ忽ち武蔵坊弁慶が長刀を光らせて出てきます。源氏の御曹司の牛若丸に向かって切りかかった。牛若丸は鉄扇で弁慶の長刀を打ち払ってしまう。牛若は前後左右飛鳥の如く身をかわして朱塗りの欄干の上に飛び乗り、かつぎを翻して立っています。千人の刀を奪うことを悲願にしていた弁慶は夢が立たれ、武器を捨てて両手をつき己の罪を牛若に詫びます。戦いが終わって鴨川が静かに流れていきます。そうして武蔵坊弁慶は牛若丸の家来になり、笛の音を響かせながら遠くへ去っていきました。

【一ノ瀬懐古】

一ノ瀬懐古

通釈
平家一門の栄華の夢も二十余年でひと方もなく消えてしまった。今一の谷の古戦場に佇めば、沖合から吹く風にかつての兵達も払いつくされてしまったあたりに漂う凄惨な気を押し分けるように山々が高くまた低く聳え立っている。波は海底に眠る平氏の恨みの叫びをほとばしらせ、日夜、東の方角、京の都を慕っているようである。

一位の尼に抱かれ安徳帝天皇が御入水されました悲しいお姿を想えば万感、胸に迫り。空飛ぶ鸛に往時の有様を尋ねてみたい。この地で流された武士達の鮮血はどれほどおびただしいものであったであろう。

砦の跡と思われる辺りには樹木が茂り、折しも鳴くホトトギスが鳴いた血の跡かと見間違うような真っ赤な花があちらこちらで咲いて凄まじい戦のあとを偲ばせるのである。

【稗付の歌】

稗付の歌

通釈
栄華を極めた平家も一の谷の戦で源義経のひよどり峠の奇襲にあい、一旦は屋島の浜に逃れたが、再び源氏の攻める所となり長門の壇ノ浦に敗走した。この戦いにおいて、あるものは海に没し、あるものは捕らえられて一族ことごとく壊滅しました。その末路、誠に憐れむに堪えないものがあります。

わずかに生き残った残党の中、鶴富父娘主従は遁れ逃げて、宮崎県椎葉の山中で暮らすこととなりました。隅々まで平家追討の命を受けた那須野大八はこの上椎葉に来たが、今は全く武器を捨て平和に暮らしている父娘の姿に心を打たれ、終にはその任に反し、鶴富姫に思いを寄せる間柄になりました。その哀話は稗付の歌と共に綿々と今日まで伝えられているのであります。

【平家物語】

平家物語

【源義経の歌】

源義経の歌
源義経の歌2

【静御前の歌】

静御前の歌
静御前の歌2
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